量子計算機によるランダムオラクルモデルの破綻:暗号プロトコルの理論的安全性への影響
はじめに
暗号理論における安全性証明は、しばしば特定の理想化されたモデルに基づいています。その一つに、ランダムオラクルモデル (Random Oracle Model, ROM) があります。ROMでは、ハッシュ関数を、あらゆる入力に対して真にランダムな出力を返す理想的な関数(オラクル)として扱います。このモデルを用いることで、多くの暗号プロトコルが、特定の困難問題(例えば、因数分解問題や離散対数問題)の計算困難性に基づいて安全であることが証明されてきました。しかし、量子計算機が登場したことで、このROMの仮定に対する再評価が必要となっています。量子計算機は、古典計算機では不可能であった方法でオラクルにクエリを実行し、特定の構造や相関関係を発見する能力を持つため、ROMの仮定を破る可能性が指摘されています。本稿では、量子計算機がROMの仮定をどのように破るか、そしてこれがROMに依存する暗号プロトコルの理論的安全性にどのような影響を与えるかについて、詳細に分析します。
ランダムオラクルモデル (ROM) と 量子ランダムオラクルモデル (QROM)
ランダムオラクルモデル (ROM) の定義と意義
ROMは、暗号理論で広く用いられるモデルであり、ハッシュ関数 $H: {0,1}^* \to {0,1}^n$ を、各入力に対して一様にランダムな出力を返す関数として扱います。具体的には、オラクル $H$ へのクエリに対して、過去に同じ入力でクエリが行われていなければ、 ${0,1}^n$ から一様にランダムな値が返され、その入力と出力のペアが記憶されます。同じ入力で再度クエリが行われた場合は、記憶されたペアの出力が返されます。このモデルは、現実のハッシュ関数(例: SHA-256)が、理想的なランダム性を持つかのように振る舞うというヒューリスティックな仮定に基づいています。ROMに基づく安全性証明は、プロトコルの設計において、特定の攻撃に対して脆弱でないことを示す強力なツールとなります。
量子ランダムオラクルモデル (QROM)
量子計算機が登場すると、攻撃者は古典的なクエリだけでなく、量子的な重ね合わせ状態でのクエリをオラクルに対して実行できるようになります。これを考慮したモデルが、量子ランダムオラクルモデル (Quantum Random Oracle Model, QROM) です。QROMでは、攻撃者はオラクル $H$ に対して量子的なクエリ $|x\rangle \otimes |y\rangle \to |x\rangle \otimes |y \oplus H(x)\rangle$ を重ね合わせ状態で行うことができます。これにより、古典的なROMでは単一のクエリでしか得られなかった情報が、単一の量子クエリで複数の入力に対する関数の重ね合わせとして得られる可能性があります。
量子計算機によるROMの破綻事例
QROM環境下では、量子アルゴリズムを用いることで、古典的なROMでは達成できなかった効率で特定の計算が可能になります。これは、量子計算機がROMの仮定(特に、ハッシュ関数が構造を持たない真にランダムな関数であること)を破ることができることを意味します。
最も代表的な例の一つは、Groverの探索アルゴリズムの応用です。ROMにおいて、サイズ $N$ の探索空間から特定の性質を持つ要素を見つけ出すには、古典的には平均して $O(N)$ 回のクエリが必要ですが、量子的にはGroverアルゴリズムを用いて $O(\sqrt{N})$ 回のクエリで見つけることが可能です。
暗号学的なハッシュ関数の性質との関連では、以下の点が挙げられます。
- Preimage Resistance (原像計算困難性): 出力 $y$ が与えられたとき、$H(x) = y$ となる入力 $x$ を見つける問題。古典ROMでは $O(2^n)$ クエリが必要ですが、量子計算機を用いたGrover探索により $O(2^{n/2})$ クエリで発見可能です。
- Second Preimage Resistance (第二原像計算困難性): 入力 $x_1$ が与えられたとき、$x_2 \neq x_1$ かつ $H(x_2) = H(x_1)$ となる $x_2$ を見つける問題。これも古典ROMでは $O(2^n)$ クエリが必要ですが、量子計算機を用いたGrover探索により $O(2^{n/2})$ クエリで発見可能です。
- Collision Resistance (衝突計算困難性): $x_1 \neq x_2$ かつ $H(x_1) = H(x_2)$ となるペア $(x_1, x_2)$ を見つける問題。古典的にはBirthday attackにより $O(2^{n/2})$ クエリで発見可能ですが、量子計算機を用いるとBrassard-Hoyer-Tapp (BHT) アルゴリズムにより $O(2^{n/3})$ クエリで発見可能です。
これらの量子アルゴリズムは、ハッシュ関数が理想的なROMであるという仮定の下でも、古典的な計算量限界を破ります。これは、ROMに基づく多くの安全性証明が、量子攻撃者に対してはそのままでは通用しないことを示唆しています。
ROM/QROMに依存する暗号プロトコル
多くの既存および提案されている暗号プロトコルは、その安全性証明においてROMを仮定しています。
- Hash-based Signature Schemes: メルクル署名 (Merkle signatures)、XMSS (eXtended Merkle Signature Scheme)、SPHINCS+ などのハッシュベース署名は、ワンタイム署名やツリー構造を組み合わせることで構築され、その安全性は基盤となるハッシュ関数の特定の性質(通常は第二原像計算困難性や衝突計算困難性)に強く依存しています。これらのスキームの多くは、厳密な安全性証明をROMで構築しています。
- Padding Schemes: RSA-OAEP (Optimal Asymmetric Encryption Padding) や RSA-PSS (Probabilistic Signature Scheme) などのパディングスキームは、公開鍵暗号や署名スキームの安全性を強化するために導入されました。これらのスキームの安全性証明は、しばしばROMを仮定しています。
- Key Derivation Functions (KDFs): KDFは、短い秘密情報から鍵として使用できる十分な長さのランダム列を生成するために使用されます。多くのKDFはハッシュ関数を基盤としており、その設計や安全性分析においてROMが考慮されることがあります。
- Commitment Schemes: コミットメントスキームは、値を確定し(コミットフェーズ)、後でその値を明らかにする(明らかにするフェーズ)ためのプロトコルです。ハッシュ関数ベースのコミットメントスキームは、ハッシュ関数の衝突計算困難性に基づき、多くの場合ROMで安全性が証明されます。
量子計算機によるROM破綻がプロトコルの安全性に与える影響
量子計算機によるQROM環境での優位性は、ROMに基づいた既存の安全性証明が、量子攻撃者に対しては十分でないことを意味します。
- 安全性証明の無効化: 古典的な計算能力を持つ攻撃者を想定したROMでの安全性証明は、量子的な計算能力を持つ攻撃者には適用できません。例えば、ROMで安全と証明されたスキームでも、量子攻撃者がQROMでの効率的なアルゴリズム(例: $O(2^{n/3})$ の衝突攻撃)を用いて、古典的なROMの範囲外で仮定が破られる可能性が生じます。
- Hash-based Signature Schemesへの影響: Hash-based signature schemes は、一般的に量子計算機に対しても耐性がある(量子耐性を持つ)と考えられています。しかし、その安全性証明はQROMで行われる必要があります。QROMにおける衝突攻撃の効率向上 ($O(2^{n/3})$) は、古典ROMで必要だったハッシュ出力サイズ $n$ よりも、QROMで同じセキュリティレベルを達成するためにはより大きな $n$ が必要となることを意味します。例えば、古典的なセキュリティレベル128ビット($2^{128}$の計算量に耐える)を達成するためには、衝突耐性に関してROMではハッシュ出力サイズ $n=256$ ビットで十分でしたが、QROMでは $n=384$ ビットが必要となる可能性があります($2^{384/3} = 2^{128}$)。SPHINCS+ などのPQC候補スキームは、このQROMでのハッシュ関数の強度を考慮して設計されています。
- その他のプロトコルへの影響: OAEPやPSSのようなパディングスキームの安全性も、ROMに依存している場合、QROMでの新たな攻撃可能性を検討する必要があります。KDFやコミットメントスキームについても同様に、量子計算機による分析に対する新たな評価が必要です。
ポスト量子暗号におけるQROMの考慮
ポスト量子暗号 (PQC) の設計と分析において、QROMは重要なモデルとなっています。
- 安全性証明におけるQROMの利用: Hash-based signature schemes のように、QROMでその安全性が証明されるPQC候補があります。これらの候補は、量子計算機による攻撃に対する耐性を持つように設計されており、QROMでのハッシュ関数の強度に基づいたパラメータ選択が行われます。
- QROMに依存しないPQC: 格子ベース暗号や符号ベース暗号など、ランダムオラクルモデルに依存しない安全性証明を持つPQC候補もあります。これらの候補は、格子問題や符号復号問題といった、量子計算機でも効率的に解けないと考えられている困難問題に基づいています。
- ハッシュ関数の選択: QROMでの効率的な攻撃を考慮すると、PQCスキームで使用されるハッシュ関数は、より大きな出力サイズを持つものを選ぶか、あるいは量子計算機に対しても十分な衝突耐性を持つ(例えば、ハッシュ関数の内部構造に量子的な脆弱性がない)ものを選ぶ必要があります。現在標準化が進められている多くのPQCスキームは、SHA-256やSHA-3などの古典的なハッシュ関数を基盤としていますが、これらの関数の量子耐性(特に内部構造に対する量子攻撃の可能性)については、さらなる研究が必要です。
結論と今後の展望
量子計算機によるランダムオラクルモデルの破綻は、暗号理論における基本的な仮定の一つに影響を与える深刻な問題です。QROM環境下での量子アルゴリズムの優位性は、ROMに基づいて安全とされてきた多くの既存暗号プロトコルの理論的安全性に疑問を投げかけます。
Hash-based signature schemes のように、QROMでの安全性が証明されているPQC候補は存在しますが、それを実現するためには古典的なROMで必要だったハッシュ出力サイズよりも大きなサイズが必要となるなど、具体的なパラメータ設計に影響を与えます。また、ROMに強く依存する他のプロトコル(パディングスキーム、KDF、コミットメントなど)についても、QROMでの厳密な安全性分析が不可欠です。
今後の研究課題としては、QROMにおけるハッシュ関数のより詳細な振る舞いの理解、特定のプロトコルに対するQROMでの具体的な攻撃モデルの構築と分析、そしてROMやQROMに依存しない、より強固な理論的基盤を持つ暗号プロトコルの設計が挙げられます。量子時代のサイバーセキュリティを確保するためには、このような理論的な深掘りが継続して行われる必要があります。