量子計算機によるゼロ知識SNARKs/STARKsへの脅威:構成要素攻撃とプロトコル安全性
はじめに
ゼロ知識証明(Zero-Knowledge Proofs, ZKPs)は、ある声明が真であることを、その声明の真実性以外のいかなる情報も開示せずに証明できるという強力な暗号学的プリミティブです。近年、特にSuccinct Non-Interactive Arguments of Knowledge (SNARKs) や Scalable Transparent Arguments of Knowledge (STARKs) といった特定の形式のゼロ知識証明システムが、ブロックチェーン技術、プライバシー保護、スケーラビリティソリューションなどの分野で広く応用されつつあります。これらのシステムは、複雑な計算の検証コストを大幅に削減できる点で非常に有用です。
しかしながら、量子コンピュータの実用化が視野に入りつつある現状において、これらの先進的なゼロ知識証明システムが新たなサイバー脅威に直面する可能性が懸念されています。本稿では、SNARKsおよびSTARKsの基本的な構成要素が量子アルゴリズムによってどのように脆弱になりうるか、さらにプロトコルレベルで考慮すべき量子脅威について技術的な考察を行います。
SNARKs/STARKsの構成要素と量子脅威
SNARKsやSTARKsは、様々な暗号学的および計算論的な構成要素を組み合わせて構築されています。量子コンピュータによる攻撃の可能性を評価する上で、これらの基盤技術に対する量子アルゴリズムの影響を詳細に分析することが不可欠です。
ペアリングベース暗号へのShorアルゴリズムの影響
多くのSNARKs(特に初期の形式)は、楕円曲線上のペアリング演算に基づいています。ペアリングベース暗号は、特定の数学的な構造を利用して効率的なゼロ知識証明システムを構築することを可能にしていますが、これらのセキュリティは離散対数問題(Discrete Logarithm Problem, DLP)や楕円曲線離散対数問題(Elliptic Curve Discrete Logarithm Problem, ECDLP)の困難性に依存しています。
Peter Shorが開発したShorのアルゴリズムは、十分な数の誤り訂正済み量子ビットを持つ大規模な量子コンピュータ上で実行されると、これらの問題(DLP, ECDLP, 素因数分解問題)を多項式時間で解くことが可能になります。これは、ペアリングベースSNARKsの鍵生成や検証プロセスにおいて使用される公開鍵やパラメータが、古典的な計算では困難であった効率的な攻撃に晒されることを意味します。具体的には、証明システムで用いられる秘密鍵が公開情報から効率的に導出される可能性があり、証明の偽造(健全性Soundnessの破綻)につながる恐れがあります。
ハッシュ関数へのGroverアルゴリズムの影響
STARKsや、ペアリングを使用しない一部のSNARKsは、セキュリティの多くを衝突耐性ハッシュ関数や暗号学的なコミットメントスキームに依存しています。例えば、STARKsはFRI (Fast Reed-Solomon Interactive Oracle Proofs) という対話型証明をベースとしており、その非対話化にはFiat-Shamirヒューリスティックと暗号学的ハッシュ関数が用いられます。
Groverの探索アルゴリズムは、量子コンピュータ上で非構造化データベースの探索を古典アルゴリズムの平方根の時間計算量で実行できるアルゴリズムです。ハッシュ関数へのGroverアルゴリズムの適用は、衝突発見攻撃や原像攻撃に必要な計算量を約平方根に削減します。例えば、セキュリティレベルが$2^n$である古典的なハッシュ関数に対して、Groverアルゴリズムを用いると$O(2^{n/2})$の時間で攻撃が可能になります。
この平方根加速は無視できない脅威ですが、Shorアルゴリズムによる指数関数的な加速とは異なり、現在のセキュリティパラメータを2倍にすることで(例えば、128ビットセキュリティを達成するために256ビット出力のハッシュ関数を使用するなど)古典的なセキュリティレベルを維持することが原理的には可能です。ただし、これは必要な計算資源の著しい増加を伴うため、STARKsのような効率性が重要なシステムにおいては設計上の課題となります。また、量子コンピュータの発展により、Groverアルゴリズム以外の新たな量子アルゴリズムがハッシュ関数やコミットメントスキームに対してより深刻な影響を与える可能性も否定できません。
その他の構成要素への量子攻撃
SNARKs/STARKsは他にも様々な数学的構成要素やプロトコル要素を含んでいます。例えば、多項式のコミットメントスキーム、乱数生成器、線形代数演算などです。乱数生成器の量子計算による予測可能性向上は、以前の記事でも論じましたが、証明生成プロセスにおけるランダム性の利用に対する脅威となりえます。また、特定の線形システムを解くための量子アルゴリズム(例: HHLアルゴリズム)が、証明検証や関連する計算に対して応用され、想定外の脆弱性を生む可能性も理論的には考えられます。
プロトコルレベルの量子脅威に関する考察
構成要素への攻撃可能性に加えて、ゼロ知識証明プロトコル自体の設計に対する量子計算の影響も考慮する必要があります。
証明者の量子計算能力
証明者が量子コンピュータを利用できる場合、古典的な証明者よりも効率的に証明を生成したり、あるいは古典的な検証者に対して不正な証明を生成したりする可能性が考えられます。例えば、あるNP問題に対するゼロ知識証明システムにおいて、証明者が量子コンピュータを用いてその問題のインスタンスの解を効率的に発見し、その解を用いて証明を生成するといったシナリオは、古典的な証明者モデルでは想定されていても量子加速により現実的な時間で実行されうるようになります。さらに深刻なのは、古典的な検証者が検出できないような方法で、偽の声明に対する証明を生成する能力です。これは、プロトコルの健全性(Soundness)が量子的な証明者に対して保証されない可能性を示唆します。
検証者の量子計算能力
一方、検証者が量子コンピュータを利用できる場合、証明者が生成した証明の検証が量子的に加速される可能性があります。これは一般的に歓迎される側面ですが、特定のインタラクティブ証明(IOPs, PCPsなど)をベースとするシステムにおいて、古典的な検証者では実行不可能な検証手順が量子コンピュータでは可能になり、結果としてプロトコルの健全性証明に影響を与える可能性も検討が必要です。また、検証者が量子コンピュータを用いて証明から知識を抽出してしまう(知識ゼロ性Zero-Knowledgeの破綻)シナリオも理論的には考えられますが、ゼロ知識証明の多くは古典的な定義に基づいています。量子的な定義(例: Quantum Zero-Knowledge)を満たす証明システムの研究も進められています。
特定のシステム設計への影響
SNARKs/STARKsの具体的な設計に踏み込むと、例えばTrusted Setupを使用するSNARKsでは、セットアッププロセスが量子コンピュータによって攻撃される可能性が浮上します。生成された公開パラメータや検証鍵が量子計算によって効率的に分析され、不正な証明生成を可能にする情報が漏洩するリスクです。Universal SNARKsのようにセットアップが特定の計算に依存しないシステムや、STARKsのようにTrusted Setupが不要なTransparentなシステムは、セットアップに対する量子脅威のリスクを低減しますが、前述の構成要素への脅威は依然として残ります。
量子耐性ゼロ知識証明システムの研究動向
これらの量子脅威に対処するため、量子耐性(Quantum-ResistantまたはPost-Quantum)を持つゼロ知識証明システムの研究が活発に行われています。これは主に、量子耐性のある暗号学的プリミティブ(格子ベース、ハッシュベース、符号ベースなど)を用いてSNARKs/STARKsを再構築するアプローチを取ります。
- ペアリングベースSNARKsの代替: 格子ベース暗号に基づいたペアリング代替(例: Graded Encoding Schemes)や、ハッシュ関数、衝突困難性などに依存する非対話型証明システム(例: FRIベースのSTARKsや、他のIOP/PCPに基づいたシステム)への移行が進められています。格子ベース暗号はShorアルゴリズムに対して耐性があると広く信じられており、多くのPQC候補アルゴリズムの基盤となっています。
- 量子耐性ハッシュ関数: STARKsなどに不可欠なハッシュ関数については、SHA-3のような現在の標準ハッシュ関数はGroverアルゴリズムに対してはパラメータサイズを調整することで対応可能ですが、より将来的な量子アルゴリズムに対する耐性についても継続的な評価が必要です。
- 量子耐性多項式コミットメント: KZGコミットメントのようなペアリングベースのコミットメントスキームに代わり、格子ベースやハッシュベースの多項式コミットメントスキームの研究が進められています。
これらの研究はまだ発展途上であり、量子耐性を持ちながらもSNARKs/STARKsの重要な特性である簡潔性(Succinctness)やスケーラビリティを維持することは大きな挑戦です。
まとめと今後の展望
ゼロ知識証明システム、特にSNARKsおよびSTARKsは、その効率性と強力なプライバシー・スケーラビリティ特性により、現代の暗号システムや分散システムにおいて重要な役割を果たしています。しかし、これらのシステムは、その基盤となる暗号学的構成要素やプロトコル設計の性質上、量子コンピュータによる新たな脅威に直面しています。
Shorアルゴリズムによるペアリングベース暗号の破綻、Groverアルゴリズムによるハッシュ関数の効率的な攻撃可能性、そして量子的な証明者や検証者モデルにおける健全性や知識ゼロ性の再評価は、これらのシステムの実用的なセキュリティを論じる上で不可欠な要素です。
現在進行中の量子耐性ゼロ知識証明システムの研究は、これらの脅威に対する重要な防御策を提供しようとしています。格子ベース暗号や量子耐性ハッシュ関数を用いた新しい構成方法の探求は、ポスト量子時代においてもゼロ知識証明の有用性を維持するための鍵となります。
研究者コミュニティは、理論的な健全性および知識ゼロ性の定義を量子計算モデルに拡張し、既存および新規のゼロ知識証明システムがこれらのより厳格な定義を満たすかどうかの評価を継続する必要があります。また、量子コンピュータのハードウェアおよびアルゴリズムの進展を注意深く監視し、新たな脅威が出現した際には迅速に分析と対策の研究を進める警戒態勢が求められています。SNARKs/STARKsのセキュリティに関する将来の議論では、これらの量子的な側面が中心的なテーマとなるでしょう。